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粟島浦村の概要

島の概要

写真:粟島空撮

位置 東経:極東139°16′ /極西139°13
北緯:極南38°29′ /極北38°26′
面積 9.78km2
地勢 東西4.4km 南北6.1km
海岸線22.3km
標高(最高)小柴山 265.6m
人口 370人(世帯数173・男184人・女186人)
(平成27年度国勢調査)
写真:西海岸の景観
西海岸の景観
写真:西海岸からの夕日
西海岸からの夕日
写真:岩ゆり
岩ゆり

伝統文化

小さな島には、助け合いの深い結びつきが生きています。

この小さな島では、みんな顔見知りのご近所さん。上下関係はさておき、同姓が多いために便宜上お互いを名前で呼び合う地域です。昔から一人ひとりがお互いに助け合って生活を支えてきた離島の暮らしには、都市部では想像できないほど人と人の深い結びつきがあります。観光のトップシーズンである夏に臨時交番が開設される以外は、警察のお世話になるような事件事故が起こらない土地柄でもあります。お年寄りがいて、若夫婦がいて、子どもがいて、それが昔ながらのあたたかい共同体によってつながっている粟島。現代社会で失われつつある人間らしさや、心と心の交流が、この島ではいまも変わらず確かに息づいています。

写真:八所神社祭礼
八所神社祭礼
写真:夜回り
夜回り
写真:釜谷獅子舞(釜谷)
釜谷獅子舞(釜谷)

昔ながらのあたたかな共同体の姿は、訪れる人をひきつける島の魅力でもあります。

この村全体がひとつのコミュニティとなっている島では、住民それぞれが「主役」です。それぞれ村民は得意なことや、やりたいことを生かして、自らうるおいのある暮らしをつくろうとしています。古くからの神事祭礼はもとより、公民館では教養を高める講演会や芸能行事、毎年恒例となっている村民大運動会や村民釣り大会などのスポーツイベント、ワープロ・パソコン講習や料理教室、ソフトボールやゲートボールなどのサークル活動も盛んです。さらには、老人クラブを中心とした島内の草取り、子どもたちによる海岸清掃など、〝ふるさと粟島〟を心においたさまざまな活動が積極的に行われています。

写真:情緒ある町並み
情緒ある町並み
写真:敬老会
敬老会
写真:村民大運動会
村民大運動会

福祉

すこやかな毎日のために、子どもからお年寄りまで積極的な社会参加を。

保育所・診療所・デイサービスの機能を統合した、「保健福祉複合施設」が平成13年度に完成しました。県から医師が派遣されてくる歯科診療がはじまってから、これまでの村の診療所では手狭になったこと。保育所の建物が老朽化してきたこと。高齢化対応として新たにデイサービスセンターが求められていること。こうした3つの問題をまとめて解消するために建てられたのが「保健福祉複合施設」です。粟島浦役場の隣に位置し、利用アクセスや行政の目のゆき届きやすさから考えても好立地です。80歳を超えても海や畑で仕事をするのがあたりまえで、内浦にある「老人いこいの家」で月2回以上行われている保健事業・機能訓練にも元気に集まるお年寄りの方々ではありますが、子どもやお母さんを含めた地域社会とのふれあい、メンタルケアの面などでも、「保健福祉複合施設」の意味は世代を超えて大きいものです。

生きがいと喜びを大切にした毎日を。主体的な健康づくりが粟島流。

粟島で暮らす人々は日頃から、食生活や生活習慣を通して心身の健康管理に気をくばり、〝生きがいと喜びのある生活〟づくりに努めています。無医村であり、医師の診察が必要な場合は定期船で本土まで行かなければならないこともあって、村民は基本的に健康に対する高い意識を持っています。年1回の総合検診はほぼ100%の利用率で、5月から9月は岩船郡医師会の協力によって月3~4回の出張診療も行われています。一方で、緊急時の備えとしてヘリポートや救急患者を運ぶ輸送車も配備し、テレビ電話による遠隔診療や、コンピュータで本土の病院へ内視鏡映像を送ってリアルタイムで受診できるシステムも検討されるなど、安心して暮らせる医療サポート体制が組まれています。

写真:遠隔診療(TV電話)
遠隔診療(TV電話)
写真:総合検診
総合検診
写真:患者輸送車
患者輸送車

教育

保育所・学校と家庭が協力し合った人間教育で、心身健全に成長する子どもたち。

島の自然のようにおおらかに、そして心やさしい人になるように。充実した施設での個性重視の小人数教育は、現代が忘れかけた〝人間らしさ〟に満ちあふれています。村の保育所、そして内浦にある粟島浦村小中学校で子どもたちは、アットホームな雰囲気の中でまるできょうだいのように仲よく学校生活を送っています。学校から遠い釜谷地区の学童のために毎日スクールバスが運行し、体育館など、都市部にひけをとらない施設を背景にのびのびと個性重視の教育が進められています。これらはすべて、保育所・小中学校・家庭が、がっちりとスクラムを組みやすい島ならではの連携体制によるものです。

また一方では、本土の学校との交流学習の機会などを通して、幅広い視野を育てる総合学習も行われています。進学や就職で島を離れ、たとえ大都市へ行っても臆することなく、島で培った忍耐力・道徳観・学力・個性を堂々と発揮してほしいからです。IT時代の対応にも子どもたちは積極的です。インターネットでさまざまなホームページにアクセスし、場所と時間に格差のない情報を手に入れることを学んでいます。
島には高校がないため、子どもたちは本土の高校へ進学することになりますが、村では親元を離れて学ぶ生徒たちのために村上市内に寄宿舎「晴海寮」を建設しました。10代の大切な時期を仲間とともに過ごす貴重な3年間は、きっとよい成長の糧となるでしょう。

写真:授業風景(小学生)
授業風景(小学生)
写真:ワカメ採り(小・中学生)
ワカメ採り(小・中学生)
写真:稲刈り(小学生)
稲刈り(小学生)
写真:交流学習(小学生)
交流学習(小学生)
写真:介護体験(中学生)
介護体験(中学生)
写真:交流学習(中学生)
交流学習(中学生)
写真:授業風景(中学生)
授業風景(中学生)
写真:保育所
保育所
写真:小・中学校
小・中学校
写真:晴海寮
晴海寮
写真:スクールバス
スクールバス
写真:IT講習
IT講習

産業

豊かな海の資源を大切に守りながら、その恵みを享受する漁業。

写真:漁業
恵まれた海洋資源を活かした漁業が、観光とともに粟島の基幹産業です。粟島港・釜谷港の2港には、早春のヤリイカ、夏から秋にかけての鯛、ブリ、ヒラメ、アワビ、そして冬のマダラが水揚げされます。中でも豪快な大謀網漁で有名なのが鯛。最盛期は6月、大掛かりな定置網が角ノ浦、釜谷沖、エゾの3箇所に仕掛られ、朝夕の2回漁が行われ、マダイのほかブリ、イナダ、メジマグロなどが網の中で銀鱗を躍らせます。明治期に始まった大謀網漁は〝鯛の島・粟島〟の名物となっています。また、新たな試みとして、粟島漁業協同組合による魚介類の全国直送便も始められています。電話かFAXで注文を受け、アワビ、サザエ、季節の魚類を宅配便で送る仕組みで、その日の朝に獲れた新鮮なものを送ることも可能です。

写真:新鮮な魚介類
新鮮な魚介類
写真:内浦漁港(第4種粟島漁港)
内浦漁港(第4種粟島漁港)
写真:釜谷漁港(第1種粟島漁港)
釜谷漁港(第1種粟島漁港)

生活環境

村と住民が力を合わせ、快適・便利、そして安心して暮らせる故郷づくりを。

大火や地震、海岸侵食、土砂崩れ、水害など、過去さまざまな災害にみまわれてきた粟島。そのようなつらい経験から、島では機能的で安全な建物と道路整備を進めると同時に、多目的に活用できる災害避難場所が公有地として釜谷に確保されています。また、避難訓練や消防演習によって、心の備えの大切さを定期的に呼びかけています。
また、よりよい環境づくりをめざす諸施設の充実化もはかられています。全世帯への給水を満たす簡易水道、衛生的な生活環境に欠かせない排水処理施設、スムーズな回収処理を行うゴミ処理焼却場などが整備されています。

本土との交通機関の充実化、離島の生活を支えるベース強化、日常および緊急時の連絡用として全島をネットするオフトーク通信網も活用されています。より暮らしやすい環境づくりをめざし、村と住民が力を合わせた生活環境整備が行われています。さらに魅力的な、明日の故郷づくりをめざしています。

写真:簡易水道内浦地区
簡易水道内浦地区
写真:簡易水道釜谷地区
簡易水道釜谷地区
写真:粟島火力発電所
粟島火力発電所
写真:排水処理場
排水処理場
写真:ヘリポート
ヘリポート
写真:臨時交番
臨時交番
写真:粟島開発総合センター(粟島汽船乗場)
粟島開発総合センター
(粟島汽船乗場)
写真:ゴミ焼却場
ゴミ焼却場

粟島ものがたり

やす突観音

写真:やす突観音
康和年間(1099~1104)のある夏の夜、釜谷の六造という者が漁に出かけ、海底に不思議な光明を見つけました。六造は、「良いものなら一やす、悪い物なら二やす。」の声とともにこれに大モリを突き立て、一突きのもとに突き上げたのが、等身大の十一面観音像です。以来この像は「やす突観音」として内浦の観音寺に祭られ、島民のみならず、北前船の船人らにも、霊験あらたかな観音様として信仰されてきました。1998年から2年がかりの本格的な修復作業を行った結果、平安時代中期の作であり、その見事な作風から重要文化財に匹敵するとの評価を得ました。なお、観音像があがった岬は「仏崎」と名付けられ、今も海草が生えず、漁の網を入れない聖地とされています。

板碑

写真:板碑
板碑(いたび)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて、先祖の追善や生前に後世での逆修の供養を目的として造立された板石塔婆のことです。島にある40cm~60cm大の石の平坦面を利用して特定の梵字等を刻んだもので、内浦地区の観音寺周辺を中心に現在142基が確認され、新潟県でも最密集地になっています。粟島の板碑は、平成元年3月31日、新潟県有形文化財(考古資料)に一括指定されています。

縄文時代から続く粟島の歴史

粟島の名が文献に登場するのは大同3年(808)に作られた「大同類聚方」。粟島はこの中で「粟生」と記されていますが、ある説によるとこれは、蝦夷の一部族の名前なのだとか。島には5ケ所から縄文土器の遺跡が発見されていることから、5000年から4500年前ころの縄文中期から後期には人が住んでいたことがわかっています。粟島は明治時代に3度もの大火にみまわれ、古くからの文献・資料が消失してしまいました。しかし今でも、島にはいにしえの姿を今に伝える様々な民俗や文化が伝承されています。

美男美女の島?

明治時代発刊の「越後風俗志」によると、「男子は体格偉大強健にして容貌和順、女子は眉目清秀多し。」とあり、昭和はじめの「新発田新報」の紀行文にも、「見るほどの女がすんなりとみな背の高いこと、足が長く線の美しいこと、ゆったりと大股に足を運ぶこと、面長であること、漁村には似合わず色の白いこと…」とべた褒めのありさま。ただし古典的な美人ともあるので、現代風の美男美女かは、皆さんの判断におまかせします。

島の野生馬は義経公の愛馬の子孫?

写真:野生馬の像
粟島には昭和のはじめまで野生馬が生息していました。江戸時代の記録ではその数およそ50~60頭、さほど増えたり減ったりせず、人に飼われたりすることもなく、自由に島内を駆け巡っていたそうです。ある言い伝えでは、その昔源義経が奥州へ落ち延びる途中解き放した馬が、海を泳ぎ渡ったものとされていますが、真偽のほどは定かではありません。ただし残念なことに、明治期になって捕獲や事故などで数がだんだん減りはじめ、昭和7年に絶滅、今ではその姿を見ることは出来ません。島内の野馬公園には、この野生馬の像が立ち、今もその凛々しい面影を伝えています。