やす突観音

康和年間
(1099〜1104)のある夏の夜、釜谷の六造という者が漁に出かけ、海底に不思議な光明を見つけました。
六造は、「良いものなら一やす、悪い物なら二やす。」の声とともにこれに大モリを突き立て、一突きのもとに突き上げたのが、等身大の十一面観音像。以来
この像は「やす突観音」として内浦の観音寺に祭られ、島民のみならず、北前船の船人らにも、霊験あらたかな観音様として信仰されてきました。1998年か
ら2年がかりの本格的な修復作業を行った結果、平安時代中期の作であり、その見事な作風から重要文化財に匹敵するとの評価を得ました。なお、観音像があ
がった岬は「仏崎」と名付けられ、今も海草が生えず、漁の網を入れない聖地とされています。
板碑

板碑(いたび)と
は、鎌倉時代から室町時代にかけて、先祖の追善や生前に後世での逆修の供養を目的として造立された板石塔婆のこと。島にある
40cm〜60cm大の石の平坦面を利用して特定の梵字等を刻んだもので、内浦地区の観音寺周辺を中心に現在142基が確認され、新潟県でも最密集地に
なっています。粟島の板碑は、平成元年3月31日、新潟県有形文化財(考古資料)に一括指定されています。
縄文時代から続く粟島の歴史
粟島の名が文献に登場するのは大同3年(808)に作られた「大同類聚方」。粟島はこの中で「粟生」と記されていますが、ある説によるとこれは、蝦夷の
一部族の名前なのだとか。
島には5ケ所から縄文土器の遺跡が発見されていることから、5000年から4500年前ころの縄文中期から後期には人が住んでいたことがわかっていま
す。
粟島は明治時代に3度もの大火にみまわれ、古くからの文献・資料が消失してしまいました。しかし今でも、島にはいにしえの姿を今に伝える様々な民俗や文
化が伝承されています。
美男美女の島?
明治時代発刊の「越後風俗志」によると、「男子は体格偉大強健にして容貌和順、女子は眉目清秀多し。」とあり、昭和はじめの「新発田新報」の紀行文に
も、「見るほどの女がすんなりとみな背の高いこと、足が長く線の美しいこと、ゆったりと大股に足を運ぶこと、面長であること、漁村には似合わず色の白いこ
と…」とべた褒めのありさま。ただし古典的な美人ともあるので、現代風の美男美女かは、皆さんの判断におまかせします。
島の野生馬は義経公の愛馬の子孫?

粟島には昭和のはじめまで
野生馬が生息していました。江戸時代の記録ではその数およそ50〜60頭、さほど増えたり減ったりせず、人に飼われたりすることもなく、自由に島内を駆け
巡っていたそうです。
ある言い伝えでは、その昔源義経が奥州へ落ち延びる途中解き放した馬が、海を泳ぎ渡ったものとされていますが、真偽のほどは定かではありません。
ただし残念なことに、明治期になって捕獲や事故などで数がだんだん減りはじめ、昭和7年に絶滅、今ではその姿を見ることは出来ません。島内の野馬公園に
は、この野生馬の像が立ち、今もその凛々しい面影を伝えています。